執拗なネット攻撃はストーカー防止法にも抵触する可能性あり
ネット上の検索エンジンを巧みに操り名誉毀損を続ける行為に時効は成立しないとの見解
皆様ご承知の通り、私と山岡俊介氏は、「武富士盗聴事件」に関する弊社の刊行物で掲載した記事を巡り、民事訴訟を双方原告被告の立場で継続しています。山岡氏が起こしている民事裁判に関しては、私が経営する会社が発行した雑誌に掲載された記事に対しての名誉毀損による損害賠償請求というものです。こちら側が起こしている裁判は、山岡氏がネット上で、私のことを誹謗中傷し、事実無根の事柄を吹聴していることに対しての民事訴訟です。
山岡氏は、私のことを同時に東京地検特捜部に起訴しました。しかし、私は、言論は言論で対処すべきであり、それがジャーナリストとしての本分。言論に対し司法権力を行使し、金銭的結果を生み出すということは、正道ではないと理解しました。ただ、自らの身を守ることもしなければ、ということで先方の請求額に合わせこちらも民事訴訟を起こしました。その本意は、損害賠償金の取得ではなく、あくまで先方からの攻撃を守る意味でのことでした。
その間、東京地検特捜部のよる事情聴取を数回受けました。何も後ろめたいところはないので、取材の経緯、取材先、その検証等、全てを事実に基づいて有り体にお話しました。結果、未だ起訴されておりません。
あれから既に、二年近い月日が経過していますが、未だにネット上での攻撃は止みません。その影響は、家族や会社の経営にまで及んでおります。具体的に、現在続けられている行為は、ネット上の検索エンジンでの行為です。私の名前等で検索をかけると、そこには過去に山岡氏が執筆した「東京アウトローズ」での記事やら、彼と親しいフリーランスの記者達のサイトで書かれた私に関しての記事等が山ほど表れます。裁判内容に関しても、山岡氏が現在運営している「アクセス・ジャーナル」や「ストレイ・ドッグ」なるブログ・サイトで公開し、担当裁判官も激怒しております。
そのような状況を打開するために、私はこのブログを立ち上げました。検索エンジンで私の名前を検索した際に、このブログも表示されれば、一方的に山岡氏が操っている私に関した悪意に満ちた記事のみが記載表示されるのではなく、私の主張をも公平な立場で検索閲覧する人々に見てもらいたいと思ったからです。ところが、私のこのブログの紹介表示がアップされると、1~2日の内に削除されてしまいます。どうやってなのかは、技術的に疎い私にはわかりません。しかし、消されて葬り去られてしまうのです。そして、「東京アウトローズ」に、山岡氏が私に関して書いた悪意に満ちた事実無根の記事の紹介文が掲載されてしまうのです。その記事の内容が事実無根であることは、とっくにマスメディアによって検証されていることで、まったくの事実無根なのです。ですが、初めて目にする人は、それが本当であるかのように思ってしまうのがネットなのです。
検索エンジンは、不特定多数の人々が見るサイトです。中には、私の子供達の父母や教師が見てしまい、学校でも噂になり、子供達も肩身の狭い嫌な思いをしなければならない、ということにまでなっております。私は当事者ですから、多少の痛みは致し方ないでしょう。しかし、関係のない家族に、何の恨みがあるのでしょうか? また、自宅の住所や電話番号まで公開する必要性が、どこにあるのでしょうか? 非常に大きな疑問を感じます。
ネットがこれだけ社会に浸透し、コンピューターや携帯電話なしの生活が想像できない現状、インターネットの人々に与える影響力は、新聞や雑誌やテレビ以上に絶大です。その影響力の大きさに、規制が比例していないというのが現状です。ネット上では、不特定多数の誰もが、記事を配信することが出来ます。そして、不特定多数の誰もが、それらを見聞することができます。しかし、新聞や雑誌やテレビのようなマスメディアのように、規制する組織もシステムも、まったくない無法状態というのが現状です。
そのようなネットが無法地帯である状況下、読む人間は、そこに書かれていることが、新聞や雑誌やテレビと同じく、信頼性の高い記事と勘違いして見聞してしまっている、というところに大きな問題があります。それほど、その信頼性を意識せずに、目で捉え、感覚的にそれらの情報をそれぞれ個人の中で消化し、また発信する。ここに、ネットの怖さがあるのです。
事実は一つですが、真実とは当事者の数だけあります。何故ならば、事実は一つでも、その事実に関わった当事者の数だけ、それぞれの当事者の思惑が働き解釈されるからです。そして、そのようなそれぞれの当事者の思惑にのっとった、よく精査していない偏向した真実までもが、ネット上では自由に発進されてしまうのです。これは大きな問題であります。極論を言ってしまえば、ネットの使い方によっては、一人の人間の社会での信用や存在自体を抹殺することさえ可能なのです。何故なら、例え間違った情報であっても、その情報を受け止める側に受け止める自由があるからです。これは、非常に大きな問題であり、大切な問題です。ネットというのは、使いようでは恐ろしい人を抹殺するマシーンにさえ成り得るのです。
このような状況下、私は、裁判とは別に、警視庁も含め関係機関に相談を繰り返しております。何故なら、私には家族を守る義務があるからです。ここでいくつかのことがハッキリしてきました。また、動きを得ることができるようになってきました。まず、印刷物に掲載された記事に関しての時効は、6ヶ月であります。だが、しかし、ネット上のサイトに記載され公開され続けている記事に関しての、名誉毀損をはじめ各種の法令違反に関する時効は、ネット上で掲載されている期間成立しないという結論を導き出すことができました。また、司法的解釈に至った場合、ネット上で掲載され続けた期間が、一つの大きな判断材料になってくるという見解をも導き出すことができました。
何故、私が、時間と労力を費やし、大きな犠牲を伴いながらもここまで頑張るのか。それは私だけではなく、このような被害にあっている人々が沢山いるからです。そのほとんどの人々が、声を上げることもできずにいるのです。社会での信用を失墜させられても、泣き寝入りをしているケースが非常に多いからなのです。今までは、そのようなネット上での悪質な行為を、誰の仕業か特定することは困難を極めました。金銭的にも、時間的にも、非常にハードルが高かったのです。ところが、技術の進歩により、配信元や配信先、操作をしている経由サーバー等を特定することが以前に比べ正確に、しかも容易にできるようになってきたのです。
だからと言って、私はそんなことで仕返しをしたり、人を傷付けたりするようなことをしたいとは思っておりません。しかし、自分や家族の身に影響や被害が及ぶのであれば、私には家族を守る権利も義務もあります。それまで、認められないというのであれば、日本という国は、どこかおかしくなってしまったということではないでしょうか。
最後に、このブログの紹介文が、また検索エンジンから消えたら、何が私の身の上に今起こっているかが、皆さんに分かって頂けるでしょう。そして、その時は、皆さんが、声を大にする時です。
武富士から1円たりとも貰ったことも要求したこともない
300万円の話も3000万円の話もその話をした人間の妄想
2006年6月12日
山岡氏に近いジャーナリスト寺澤有という人物のサイトで、小早川茂氏へのインタビューということでありもしない妄想ゴトが、まことしやかに掲載されている。まず、最初に明言しておくが、天地天命に誓って武富士から1円たりとも金銭の授受はない。それどころか、武富士へ対して金銭の要求をしたこともない。
300万円貰って返したとか何とかと書かれているようだが、そのような事実はまったくない。また、3000万円に関しても、そのような事実はまったくない。このようなことはあったが。
私の亡父は、週刊文春時代に記者として故児玉誉士夫番をしていたことは、世間に知られている。その頃、故児玉誉士夫を介し故小佐野賢治とも記者として知り合った。そして、その故小佐野賢治から、彼の門下生であった人物を多く紹介された。その中に、既に他界された廣済堂の創始者故櫻井義晃氏や武富士の武井保雄氏もいた。そんな関係で、長年盆暮れには中元と歳暮が届いていた。
しかし、亡父は癌の闘病をしている最中、最期の時が迫っている頃、サンデー毎日の記者が再三再四、お断りしているにも関わらず執拗に取材を申し込んできて、会社や闘病先のがんセンターにも連日連夜やってきていた。武富士の盗聴に関しての取材だと言っていた。それは、亡父も武富士に盗聴されていた被害者の一人として、また、武井氏に近い人間の一人としての取材申し込みであった。警視庁の捜査二課からも、自宅と会社が盗聴されていた可能性があるというような旨の話がきていた。だが、亡父は、臨終を目の前にして、静かな時を過ごしたい意思を示していたので、記者にも刑事さんにもその旨を伝えていた。ところが、何としても、サンデー毎日の記者は引き下がらなかった。亡父と共に4年間壮絶なる癌との闘いをしてきた私達家族は、非常に不愉快な感情を抱いた。そして、仕方なく、その時、私は一度だけという約束で、亡父に代わって取材に応じた。当然のことながら、盗聴をされている当方が、盗聴をしている相手の心情、内情などわかるはずがない。ただ、この時、このサンデー毎日の取材の背後というか原点の部分に山岡氏がいる、ということを聞いた。この時、私は初めて山岡俊介という人物の存在を認識した。
その直後、武富士の広報だか総務だか忘れたが、元産経新聞の何とかという人間が、サンデー毎日の武富士に関しての記事は、恩田がやっているのではというようなことを遠回しに言われ、サンデー毎日へ対してと同じように、非常に大きな不快感を覚えた。亡父は、兎に角、静かな時を過ごしたかった。私達家族も、そうしてあげることを心底より願っていた。にもかかわらず、皆そんな我々家族や本人の気持などお構いなしに、ずけずけと最期の時を汚したのである。私は、武井氏へ対しても、非常に不愉快である旨を手紙で伝えた。そして、今後一切お付き合いは遠慮させて頂く旨も伝えた。それでも、詫びに総務の人などが弊社を訪れたりもしていたが、お引取り頂くようにそれ以来していた。盆暮れの付け届けも続いたが、その度ごとに丁寧に手紙を添えて送り返すようにしていた。
この寺澤有なる人物のサイトで小早川氏のインタビューとして書かれている3000万円の紙袋というのは、こういうことである。弊社に当時勤めていた女性社員が、武富士からの盆暮れの品は返却するということだけを理解しており、いつも返却する際に、返却する旨の手紙を添えて返却するということを知らずに、宅急便業者から受け取らずそのまま付き返してしまった。そこで、それまでとは対応が違ったということで、武富士側から担当者と思しき人間が、紙袋にその付き返された品を入れて弊社に参上したといことが、事の真相だ。当然のことながら、丁重に詫びお引取り頂いた。勿論、中元だか歳暮だか覚えていないが、その品も持ち帰って頂いた。それを、どういう訳か、小早川氏は、3000万円の紙袋を持ってきたが、付き返したとか、持ち帰ったとか、何だか分けのわからない妄想を言いふらしていた。中を見たわけでもなし、何十分も相手と話したわけでもなく、ほんの数分でお引取り頂いた。大体、小早川氏は、何かの用事で、丁度珍しく弊社に来社したところに鉢合わせただけであり、紙袋の中身が何であるか確かめる術もないはず。この話は、これ以上でも以下でもない。何だか、あれだけのことが、こんな話に膨らんでしまうことに、私自身驚いている。まるで、作家が小説でも書くようである。
最後に、小早川氏との関係は、金銭の貸借がある関係だけである。当然、弊社が債権者である。また、寺澤有氏とは、一度だけお目にかかったことがある。それは、山岡氏との裁判で、第一回目の法廷の傍聴席に彼は来ていた。裁判が閉廷した直後、彼は私のもとに来て名刺を差し出した。「山岡さんと非常に親しくしている寺澤と申します。これは、取材ではありません。山岡さんの親友としての質問です。何故、あのようなことをされたのですか?」という質問をしてきた。私は、当然のことながら、裁判がこれから始まろうとしている時である。何もお答えせずに失礼した。私が法廷を出ると、寺澤氏は、山岡氏の弁護士と旧知の仲のように親しく歓談しながら去っていった。私は、彼らがあまりにも親しそうなので、わざと一緒のエレベーターにならぬようにして帰路についた。何故なら、当初私は弁護人無しに、自分独りで裁判に臨んでいたので、多勢に無勢、専門家もいるので用心した、というのが本音である。
以上、これが事実であり、これ以上でもこれ以下でもない。山岡氏は、インターネット上で、検索エンジンも利用し、あらゆる手段を駆使して、執拗に私を追い込もうと攻め続けている。が、しかし、私は、事実は一つしかない、と思っている。ただ、それだけである。
8月の証人喚問は先方が被告でこちらが原告
山岡氏に近いネット上の情報サイトで、「8月の証人喚問で全てが明らかになる」等と盛んに吹聴されているが、8月の証人喚問は、こちらが起こした裁判、すなわち私が原告で山岡氏が被告の裁判での証人喚問である。一部、ネット上に出回っている情報では、私が喚問されるような誤解を受けるような悪意に満ちた記述があるが、こちらが起こした裁判での証人喚問であることだけ、誤解を解くためにここに記しておきます。
認めてもいないし、謝罪もしていないし、破産もしていない
山岡氏は、私が、山岡氏の主張を認め謝罪した、というようなことを山岡氏が主催する「アクセス・ジャーナル」なるサイトで記事として継続公開している。しかし、私は、山岡氏の主張を認めた覚えもなければ、謝罪をした覚えもない。また、現状、破産もしていない。
ことの次第は、こうである。私の弁護士と先方の弁護士へ対し、裁判所より和解をしてはどうか、というような旨の打診があった。それでは、和解するにどのような和解条件があるのか、ということを双方の弁護士が考えた。当然のことながら、裁判所側から、和解をしたらどうか、という提案があったということで、裁判所は和解調停に切り替えることを望んでいるというふうに理解した私の弁護士が、双方にとっての和解条件として考えただけのことであり、申し入れたわけでもない。
何故ならば、山岡氏側からの訴訟だけではなく、山岡氏による過度な名誉毀損行為に対して、こちら側からも裁判を起こしているからだ。双方で謝罪して和解をしてはどうだ、という申し入れではなく、双方で謝罪して和解をするという解決方法もあるのではという打診でしかなかった。
それを、山岡氏が一方的に、こちらが山岡氏の主張を認め謝罪し、その上破産したため損害賠償金も払えないというように勝手に書きたてたのである。それどころか、武富士から金を受け取った、とまで決め付けて記事を書き公開した。これが、事実である。
全ては、まったくの事実無根であり、このような行為自体が、山岡氏の報道姿勢を自ら証明しているような行為であると言わざるを得ない。思い込みで決め付け、検証することもなく文章にして公開してしまう。恐ろしいことである。
趣旨
一昔前までは、メディアといえば新聞、雑誌、テレビ、ラジオしかなかった。しかし、近年、メディアも多様化してきた。その代表が、インターネットという地球規模での媒体である。
メディアの多様化ということは、人間社会を豊かにする一助にはなる。しかし、同時に、より複雑化した社会構造をも生み出してしまった。また、手軽に各種情報を手に入れることも、発信することができるようになり、メディアの意味や意義が、以前よりも軽薄になってしまったということも否めない。
このような状況下、「真実とは何か?」という大きな疑問が生じてきた。昔より、人は「真実とは何か?」という疑問を追い求めてきた。しかし、その明確なる答えは、未だに導き出されてはいない。真実とは、明確であるはずなのだが、実際には非常に不確実なものであり、非常に哲学的なものである。それは、人間自身が、煩悩に満ち溢れた感情に支配されているからである。そして、インターネットの普及によって、この「真実とは?」という問題は人類に課せられた最も大きな問題の一つになりつつある。
多分、「真実とは?」という問題の答えは永遠に得られないであろう。しかし、一つだけ現世を生きる人間が、この問題の解決に近づく方法がある。それは、真実を見極める目を持つということである。
それでは、その真実を見極める目とは、一体何なのであろうか? どうすればよいのであろうか? 答えは、一つである。心眼を持つということだ。心で見、心で聞き、心で感じる。そうすれば、必ずや物事の本質が見えてくる。「心で見聞、体感する」、解決方法はこれしかない。
# by y_onda1959 | 2006-06-13 17:29 |
趣旨
真実とは何か?
メディアが多様化する現代社会における「真実」を見極める目
人は信じたいものを信じる。
言い方を変えれば都合の良いものを信じる。
人は十人十色、皆勝手に自分の価値観をもっている。
その価値観に基づき、自分の思惑や、都合で、物事を判断しようとする。
そして、その勝手な価値基準や感情を加味して受け止めた事実が、
その人にとっての真実となる。
しかし、
自分が信じる真実を言葉に変えた瞬間、
それは真実ではなくなる。
そこには、その人の意図が入るからだ。
物事を見聞し、何の偏見もなく素直に感じた瞬間、
そこだけに真実は存在する。
しかし、人は物事を見聞し受け止めた瞬間、
同時に自分の思惑や価値基準という自分独自のフィルターを通し、
自分勝手にろ過してしまう。
そして人は、それを真実と思い込んでしまう都合の良い生き物なのである。
ということは、
人が真実を語り合うこと自体無理なことなのか。
必ずしも、そうとは言えない。
それぞれの人々が、自分の思惑を加味した真実の集合体の中に、
実は、本当の真実がある場合もある。
それぞれに真実があり、それは否定しない。
なぜならば、それぞれの当事者に、それぞれの思惑があって物事は起こる。
ということは、それぞれの当事者の思惑、
それぞれの当事者の視点によって、
それぞれの当事者によって真実に差異が生じるのは自然な現象なのである。
人は人、自分は自分、確固たる自分を作る以外に
ブレない視点を持つことはできないのです。
自分が信じる事実、
それがその当事者にとっての真実なのです。
しかし、それはその当事者にとっての真実であり、
別の当事者にとっては別の真実があっても、
何の不思議もないのです。
なぜなら、それぞれ違った自分勝手な思惑で物事は起こるからです。
事実は一つでも、それぞれの当事者の勝手な思惑がそこに加われば、
真実は一つではなく、
いくつもの真実が発生してしまうのです。
このような状況の中、
人の世で、
真実を見極め、物事の本質を見極めるには、
心で物事を見、心で聞き、心で感じるしかないのです。
心で見聞し、感じる。
このこと以外に、人が真実や物事の本質を見極める方法はないのです。
そして、そのことは、禅の悟りにも近いことなのではないでしょうか。
なぜなら、人とは煩悩に紛れた生き物だからです。
素敵な文章です。結局は、素直な心を持ち、物事を見極めるということが、真実を見極めることになるのではないでしょうか。人が人として、この世に生を受け生きていく上で、「真実とは?」という疑問は、誰もが通り抜けなくてはならぬ大きな疑問であり、永遠に解決できない問題です。それは、人が良心に基づき生きる、ということの原点なのかもしれません。
「真実」と「事実」
メディアが多様化する現代社会における「真実」を見極める目
ここに、ネット上でみつけた、「真実」と「事実」を理解するための名文があります。自分の資料として切り取っていたので、どこから見つけたがわからなくなってしまいました。しかし、あまりにも分かり易く的を射ている説明なので、失礼ながら抜粋し掲載させて頂きました。「真実」と「事実」の違いを理解できなければ、「真実とは?」という問題を解決することはできません。よって、以下の文章を理解することで、「真実」と「事実」の違いを理解する一助にして頂ければと思う。
※以下の文章の筆者、または筆者に心当たりのある方はご一報ください。
『真実』と『事実』
『真実』とは霧の中に・・・
そんな題名の小説を読んだり、映画を観たりしたような・・・
「静寂」という名のノイズ。
「頭痛」という名の予感。
「ため息」という名の合図。
この世にはわからない事が多い。
私の生き方が不器用なだけかもしれないが、
これらのわからない事には『真実』も含まれると思う。
辞書で調べると以下の通り。
『真実』とは・・・
うそ偽りのない事。→「Truth」
『事実』とは・・・
実際に起こった事柄。→「Fact」
上記したように、『真実』と『事実』とは似て非なる物。
私が理解している内容を簡単に表現すると以下の通りです。
『真実』とは・・・
人の内側にある思想によって「正しい」と判断された物事。
『事実』とは・・・
「そこにある事柄」であって「誤り」「正しい」とは関係がない。
差別するつもりはまったくないですが、そう感じる事がある。
人種や宗教などの違う環境によって生まれる真実の相違。
ある人から見ればそれは「正しい」事で『真実』でも
他人から見ればそれは「誤っている」事もある。
しかし、そこで起こった物事はまぎれもない『事実』である。
例えば、海外でレンタカーを借りて運転する時は
現地のルールに従って運転しなければいけません。
しかし、そのルールが自分の『真実』とは異なっている場合、
多少なりとも困惑します。
もし、左側通行の国の人が、右側通行の国で左側を走ったら・・・
正面衝突を起こしてしまいます。
しかし、お互いの運転者は、自分の『真実』のルールに従って運転しただけなのです。
ここでの『真実』とは、自分が正しいと思うルールに従って行動したという事。
運転者にとってはその場所を走る事は『真実』であり、「正しい」事です。
お互いに相手が逆走して来たと感じるでしょう。
ここでの『事実』とは、正面衝突が発生したという事。
まぎれもなくそこで起こった事柄です。
わかりにくかったかな?
伝えたかった事は、自分の『真実』に頼りすぎていないかという事。
自分が育った環境が唯一無二の「真実」なのでしょうか?
答えは、NO! 違います。
『真実』とは人の数だけ存在し、「絶対」という事はありません。
しかし、『事実』とは唯一無二の存在です。
まさに、「事実は小説よりも奇なり」なのです。
補足するとこのバイロンの有名な言葉は、
「Truth is stranger than fiction」であり、
「Fact is stranger than fiction」でもあるのです。
つまり、「真実」とも「事実」とも伝えられているのです。
本当にあった嘘のような話を小説にすると・・・ 嘘っぽく感じます。
嘘の話を事実っぽく小説にすると・・・ 本当に起こりそうに感じます。
例えば・・・
・ 9回裏 2アウト満塁、代打がホームランで逆転優勝。
↓
事実。2001年 パ・リーグ戦であったことです。
・ お金に困った人から購入した法律教本を元に弁護士。
↓
事実。第16代大統領リンカーンは、お金に困った人から買った法律教本を独学して弁護士になりました。
上記の例はとても有名な「事実は小説よりも奇なり」のエピソードです。
この内容を小説にすると・・・
「そんな都合よくいかない」「結末が予測できてつまらない」となります。
しかし、これはまぎれもない事実。
他人の真実を受け入れ、「そういう感じ方もある」と理解し
自分の真実を他人に押し付けない。
そうする事で争いやストレスはなくなり、豊かな気持ちになれるのではないでしょうか。
自発的な行動を達成した時には心地よい達成感が得られますが
他人に強要された行動を達成しても心地よい達成感は得られません。
もちろん最初は他人に強要された行動でも、
達成するまでに感じ方が変われば心地よい達成感は得られます。
『真実』とは霧の中に・・・
つまり、他人の真実とは霧の中にあるように、不確かな事だという事です。
ある程度の形がわかっても、細かい場所までは見えない。
その人の成長と共に常に変わり、育ちます。
他人の『真実』とは何か、を理解した上で『事実』を見つめれば
何か新しい発見が必ずあるはずです。
「真実」と「事実」の狭間で何が起こるか?
メディアが多様化する現代社会における「真実」を見極める目
答えは、「喧嘩」「争い」「紛争」「衝突」「戦争」など、人と人の衝突です。
以上述べてきたように、「事実」は一つです。
しかし、「真実」とは必ずしも一つではありません。
それぞれの当事者の思惑が加味された「事実」が、「真実」なのです。
ということは、「事実」は一つでも、「真実」は当事者の数だけあるのです。
第三者が「事実」を検証し導きだした事柄は、「真実」ではありません。
「真実」とは、あくまで当事者のみに存在する加工された「事実」なのです。
なぜならば、第三者が、それぞれの当事者の心の内まで窺い見ることは不可能だからです。
このような状況であるにもかかわらず、
それぞれの当事者が、自分が信じる真実が唯一の真実と主張すれば、
当然のことながら、そこには争いが生じます。
なぜならば、それぞれの当事者は自分の思惑を加味して、
それらの事実を起こし、
それらの事実を受け止めているからです。
結果的に、事実は一つでも、
それぞれの当事者の思惑は違うので、
当然のことながら「真実」は、当事者の数だけ生じます。
ですが、どの当事者も、自分の主張する「真実」のみを信じます。
その結果、争いが起きるのです。
例えば、Aという人間が、ある企業から内部資料を持ち出したとしましょう。Aという人間は、その会社に勤めてはいたが理不尽な仕打ちに、大きな憤りを覚えていました。そのはけ口として、ギャンブルに走り多額の借金を抱えていました。そして、会社への復習と自分の借金の処理のために、その会社の内部資料を持ち出しました。そして、その内部資料を、金に変えることを考えました。しかし、このAという人間が社内で理不尽な仕打ちを受けているということは、当人にしかわからないことです。事実かもしれないし、被害妄想かもしれないし、そのことも定かではない。だが、会社へ対して復讐をという感情が芽生えたこと、内部資料を持ち出したことは事実なのです。
そんな時、Bという記者に出会いました。Bという記者は、スクープを狙うトップ屋のようなフリージャーナリストです。当然のことながら、Aからの話に飛びつきました。なぜなら、スクープがほしいからです。しかし、Aはお金を欲していました。そこで、Bは、その不正に持ち出された内部資料が欲しい一心で、不正とは知りながらその内部資料を金に換えられる人物CをAに紹介しました。この段階で、Bがスクープのためだけにこの不正な内部資料を欲していたか、あるいは金銭的な期待も少々もったかは、彼の心の内を覗き見ることができないので、誰にもわかりません。ただ、不正に持ち出された内部資料と知っていて第三者である、換金術に長けたCという人物にAを紹介したということは、唯一の事実なのです。そして、AもCも金銭目的である、ということを分かっていたからこそ、金銭目的であるAとCという二人を紹介し巡り合わせたというのは、間違いのない事実なのです。
その後、Cは、そのAが不正に持ち出した内部資料を、当然のことながら金に換えました。なぜならば、CにとってもAにとってもそれが目的だったからです。このことも、唯一の事実なのです。同時に、その内部資料を使って、Bはスクープ記事を書き公表しました。結局、事件へと発展し、その会社はAもBもCも訴えました。裁判になり、結局、Bだけが、多額の損害賠償金をその会社から受け取ることになりました。これも、事実です。
その後も、Bはその企業に関し記事にすることで責め続けました。これも事実です。当然のことながら、会社側は法的に対抗を試みます。その度ごとに、Bは損賠賠償請求訴訟を提訴しました。一度、最初の裁判で決着がつき、損害賠償金を受け取っているにもかかわらず、何度も同じことを繰り返したことも事実です。
そんな最中、Dという雑誌が、執拗にその会社ばかりを責め立てるBの報道姿勢に関して記事を発表しました。なぜなら、同じ報道人として、一度損害賠償金を受け取っているにもかかわらず、何度も同じことを繰り返し、司法に訴えるという手法は、報道の原点から逸脱するものだと思ったからです。しかし、これはDの信じる真実であり、Bの信じる真実とは当然のことながら違います。なぜなら、そこにはそれぞれの思惑があり、それぞれが信じる、当事者としての真実が複数存在するからです。このような状況下、Bはまたもや、今度はDをも訴えました。それだけではなく、WEBを中心に、あちらこちらでDへ対しての私憤を記事として書き出しました。しかし、Dは記事で掲載した以外は、どこの場でも一切Bのことに対して言及しませんでした。それは、Dは、文章によって人に物事を伝える仕事をしている以上、自らの私憤で文章を利用することを望まなかったからです。
Dには、事実しか見えません。当然のことながら、Bの心の内まで見えるわけがありません。同じように、BにもDの心の内まで見透かすことはできないのです。ところが、まるで、Dの心の中を垣間見てきたようなことをBは書きまくり記事にし、あちらこちらで公開しました。当然のことながら、Dの周囲ではそのことが原因して、色々な影響がでました。それでも、Dは、Bのことを雑誌で記事として取り上げた以外は、一切文章にしませんでした。Bは、Dが、Bが責めていた会社からの金に目が眩んでDが記事を掲載したと決め付けていました。それは、Bが、Dの心の内を理解していないが故のことです。Bは、自分の価値観でDのことをも同じように判断したのです。しかし、実際には、DはBとはまったく違う価値観をもっていました。Bの価値基準は「金」、だからDも「金」でという判断をしたのです。そして、Bは、それが真実だと主張し、吹聴しまくりました。
確かに、それはBにとっての都合のよい真実でしょう。しかし、Dにとっての真実ではありません。事実は一つです。Bが、不正に持ち出された内部資料をもとに記事を書き、裁判で損害賠償金を受け取り、それでもさらにその会社を責め続けていた。そして、その内部資料を持ち出した人間を、その内部資料を金に返られる人物に紹介した。これが、事実です。そして、Dが、Bのことを記事にした、これも事実です。
だが、Bは、頑なに真実は一つ、自分の言っていることが唯一正しいと主張し続けました。その挙句、まったくありもしないDに関しての事実無根までデッチアゲ、WEB上で公開しました。まるで、ある事件にDが関与し、明日にでも逮捕されるがごとくに。当然のことながら、事実をしらない視聴者読者は、そのような記事を目の当たりにし、Dのことを先入観で見るようになりました。ジャーナリストとして、絶対にあってはならない姿勢で、BはDを執拗に攻撃したのです。
結局、DがBに対してジャーナリストとして受けた報道姿勢の間違いを、Bは自らの言動で証明してしまったのです。しかし、Dにとって、その代償は非常に大きく、家族にまで迷惑がかかるほど絶大なものでした。
そして、裁判は続いています。裁判が進行している最中であるにもかかわらず、Bは裁判内容までをもWEBに公開し、それどころか、まるでDがBの主張を認め謝罪するかのようなデッチアゲさえWEB上に記事として公開するのです。
この例を読み、読者の皆様は何をお感じになったでしょうか? 真実とは、何だとお思いになりましたか。非常に複雑だと感じた方がほとんどではないでしょうか。そうなのです。実際に、物事の真実を見極めるということは、非常に複雑で労力のいることなのです。何故ならば、そこにはそれぞれの当事者の感情、思惑が関わるからなのです。
読者視聴者の方々が目にできる、WEB上に公開されているBによって書かれたDに関しての記事は、Bの勝手な思惑が加味された一方的な主張でしかないのです。それは、Bにとっての真実と言うこともできない、取るに足らない文章なのです。物事の本質を見極める最低限の常識は、全ての当事者の意見を見聞する。このことから、はじまるのです。一方的な、言い分だけでは判断はできないのです。なぜならば、それは一人の当事者の都合の良い主張でしかなく、真実とは程遠いものだからです。だからこそ、善意の第三者が判断を下す、裁判という制度があるのです。
にもかかわらず、その裁判をも利用し、神聖なる司法の場をも汚すような行為が、言論人と自負する人間によって為されてよいものなのでしょうか。非常に大きな疑問を感じ、敢えてこの文章を書くことに致しました。
司法の場に委ねられて以来、司法の場を汚すことがあってはならぬということから、一切一言も、この事件に関して何処の場でも言及することを控えてきました。しかし、私への私憤をはらすべく、先方が為し続ける行為は、度を過ぎ司法制度自体をも侮辱するような行為であると思い、後にも先にもこれが最初で最後と思い書き綴りました。
私も人間です。私にも感情があります。しかし、自分の感情を表現する前に、一国民とし、司法制度を尊重した姿勢で臨まなければという思いからの執筆であることを、読者の皆様にはご理解いただきたく思います。
ライブドア: 真実とは?(恩田葉一郎見聞録)
http://blog.livedoor.jp/y_onda1959/?blog_id=1776403
ヤフー: 真実とは?(恩田葉一郎見聞録)
http://blogs.yahoo.co.jp/y_onda1959
エキサイト: 真実とは?(恩田葉一郎見聞録)
http://onda1959.exblog.jp/
ライブドア: 政財界倶楽部(恩田将葉見聞録)
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